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働くことと休むことについての思い

礼拝のメッセージからの気付き、第3弾・・・

日曜日のメッセージのタイトルは、「仕事についてのストレス」だったの。

そもそも、仕事というのは苦痛なもの、できればしたくないものという位置づけを見直させられた。
創世記の1章1節に、神が天と地を創造したとある。つまり神様がまず働いたの。 
そして2章15節で、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせたとある。
エデンの園って言うと、食っちゃ寝〜食っちゃ寝〜している楽園かと思ったら大間違いで、
神様はそこで人を働かせたのね。
苦痛を与えたのではないよ。「働く喜びのある場所」だったってこと。
なんで働くのが喜びだったのかというと、
その労働が神様の心にかなうものであって、神様の喜びとともにあったから。

ところが、人が神様を離れ、自分のために生きるようになった時、
労働は自分を喜ばせるものとなり、そこに苦しみが生まれるようになった。
自分の満足って、どこまでやればいいのかわからないし、思ったようにならないし、
人や自分の評価があるし、人間関係などもストレスの元だよね・・・・。
働いたほどの報酬がないことも、足りない不安と満たされない思いでいっぱいになる。
神様と離れたことで、ほんとにつらい道を歩くのね。

でも、神様は私たちにその疲れ、苦しみを休ませ回復する方法を与えてくださった。
それは、イエス様のもとにいくことであり、魂の安らぎをあたえるものだった。


人として、この世で、もっとも過酷でストレスのある仕事をされたのは、イエス様だ。
だからこそ、疲れて苦しみの中にある人のことをよく御存じなのだね。


でも、なかなか休めないんだよね・・・・・

昔、学校に勤めていて思ったのだけれど、
人を相手にする職業って、「閉店ガラガラ」はあり得ない。
自分が休みたいと思っても、休めないことはなんぼでもある。

今、内職を始めて思うのだけれど、
会社務めのように、時間で「おしまい」って区切ることができない。
いつが労働時間でいつが休みなのかわからない。
区切るのは、ノルマが終わった時だ。

25年間主婦をやってて思うのだけれど、
主婦は休みがない。
夫や子供にやらせればいいじゃん?とか言われるけど
その夫の性格とか関係とか今までの成り行きとかを知らずに言われるのはつらい。
自分で手抜きをするタイミングを作り、自分で休みをさりげなく作りだす。

こういうとき、思うのは
イエス様も、安息日に休まれなかった時があったよね・・・・ということ。
当然、休みは必要なんだ。
あったり前の真ん中だ。
心も体も休みが必要なんだよ、にんげんだもの。 

でも、休めないときもある。
それは神様を大切にしていないからではないのよ・・・
せめてそう言いたい。

そして、幸いなことに、働くことを楽しめる割合の方が強い(完全じゃないけど)。
だから感謝して今日もがんばってます。

疲れてきたら、イエス様のもとに行って休みます。
それだけは忘れないぞと誓うのであります!



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柔和な心・・・しもべの心になること

 昨日に引き続き、礼拝のメッセージの中でわかったこと。

日本語にしているから変な風に感じるのだろうとは思っていたけど
歴代の日本人クリスチャンのみなさんが、これを疑問に思わなかったのかが不思議だ。

いや、疑問に思うなんて不信仰だから、思っても言わないよな・・・・(笑)

すごく有名で、何百回も読んだ箇所。
マタイ11章29節。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。

イエス様は、聖書の中で、ご自分がどんなお方なのかを語る場面がよくある。
だけど、「わたしは心優しいから」って、どうなの?って思ってたの。
この表現イマイチじゃないの?って・・・・。

わたしたちが人に「私って心優しいヒトなんだもんね」なんて言ったら
いっぺんに嫌われちゃいそう・・・・

でも、そうじゃないってわかったの。

心優しいというのは、聖書の中では「穏やか、柔和、従順」つまり、しもべの性質を表す言葉として使われるんだって。
柔和というと、ただやわらかくて優しい人のイメージがあるけど違うんだね。
柔和は、「軟弱な弱さ」のニュアンスではなく、自己コントロールができる強さをあらわすのだ。
たとえば、イエス様は神の子だってご自分でも分かっているのに、
人として、ヨセフとマリアを敬い、万能じゃない人間の人生を送るのだもの、
これっておっそろしい自己コントロールがなかったらできないでしょう。
しもべとして生きるには、この柔和さが欠かせない。
耐えられないような仕打ちに耐えることも、柔和だからできることであると思う。

柔和な者は幸いである。その人は地を相続するから・・・と
山上の説教の中でもイエス様は言われた。
そうか、そういうことなのか!

だから、わたしたちにもイエス様に似たものになるようにと言われるのだ。
イエス様に似たものにされて、地を相続するものにされるのだ!

つまり、11章29節は

わたしはしもべとして生きるものであり、また、わたしを造られた方がどのようなかたかを知っているから、あなたがたもわたしにつながってわたしと並んで生きましょう、そしてわたしに似たものになりなさい。

っていう意味なんだね。

あ〜めん!


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「栄光をあらわす」ってどういう意味なの???

今日、礼拝メッセージの中で
普段、知ったような顔して使っているクリスチャン特有のことばが
実は意味を知らずに言ってたなあって事をいくつも発見したので
そのことを記しておきたい。

子どもが覚えたてのことばを使ってみたくなるように
私たちもクリスチャンになって、耳にする言葉を雰囲気で使ってみたくなる。

そのひとつが「栄光をお返しします」だ。
私はかねてから、「栄光を返す」のか「栄光を帰す」のかわからなかった。
神様に栄光を返しちゃうの?なんで?
天にイエス様が帰られたのだから、栄光の主、イエス様を帰すんじゃないの?
私たちが帰さなくても自分で帰ったよね・・・・
そもそも「栄光」って返したり帰したりするものなの?

ここで忘れてはならないのが
「神の恩は、ただ愛ゆえの、一方的に注がれる恵みであり、恩返しできるようなものではない。」
「神様は恩に報いてほしいなんて言ってない。ただ、忘れないでほしいと願っておられる」
ということではないか。
つまり恩を返すなどと思っているのは間違いである。

今日のメッセージのアウトラインには
神様の栄光をあらわすという意味のことばを 
「神様の愛と神様の素晴らしさを映し出します」
と書いてあった。
家庭で、職場で、地域で、神様の素晴らしさを映し出す生き方をするなら
その生き方は、神様の栄光をあらわしている生き方と言える。

礼拝での献金のお祈りも、かつては
色々祈った後で「いま、ほんの少しですが献金という形であなたにお返しします」と祈っていた時期があった。
わずかばかりの献金で、神様が下さった報いることもできない大きな恵みにお返しをしたつもりになったらこれは大きな勘違いだ。
日本の冠婚葬祭では、お祝いの「半返し」とか、そういうしきたりがあるゆえに
どうもそういう感覚がついてまわるのかな。

神様の栄光をあらわす事は
それは、素晴らしい神様を正しい形でプレゼンテーションすることなのだ、と牧師は言う。

なんかめっちゃすっきりした!!!!!!

ず〜っとず〜〜っと知らずに使ってた。知らずに祈ってた。


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ザアカイに見る、自分自身へのストレス

日曜日の礼拝メッセージは、自分自身についてのストレスがテーマだった。
ルカ19章から、ザアカイの話が使われた。

ザアカイはユダヤ人でありながら、ユダヤ人からローマ帝国に納める税を取り立てる仕事をしていた。
不正な取り立てをして私腹を肥やし、経済的には豊かで、知恵も働くザアカイだったが、
「ローマの犬」 などと言われて人々から軽蔑されていた。

ザアカイは小さい男だったそうだ。
小男で、卑しい仕事をしているというコンプレックス、ザアカイはずっと持っていたのかな。

エリコの町にイエス様が来られると知ったザアカイは
そこに集まった人垣を見て、一本の「いちじく桑」の木に登った。
いちじく桑は、比較的低いところから枝を張る木で、登りやすかったみたい。
おまけに枝葉が多く、自分の姿を隠すことも容易だったと思われる。

なぜ木に登ったのか。
人混みをかき分けることは難しく、特に嫌われ者のザアカイゆえ、
意地悪されたり押しのけられるに決まっている・・・・。
だから人より高いところに行った。
これって、彼の生き方に似ているよね。
もうひとつ、そんなことをしてでも、イエス様が見たかった。
これだよね。

イエス様は、木の下を通り過ぎる時、ぴたりと止まってザアカイを見るんだ。
「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから。」
驚きその1 ザアカイの名前を知っていた!!!!
驚きその2 卑しいザアカイの家に泊まるなんて!!!

これは、ザアカイが木に登ったからイエス様が目に止めてくれたのではないのだね。
もしそうだったら、自分の行いがすべてになっちゃう。
ザアカイの生き方に、それを受け取るにふさわしいほめられたものなんかなかっただろう。
ただ、恵みによって救われたのだった。
イエス様は初めからザアカイを知っていた。
ザアカイを初めから愛していて、ザアカイの良さを知っておられ、
ザアカイを「この人もアブラハムの子」と言ってくれた。

ザアカイは劇的に変わる。
財産の半分を貧しい人に施す宣言。だまし取ったものは4倍にして返す宣言。
イエス様がザアカイを諭して「金をちゃんと返しなさいよ」とか言ったのではない。

そしてね、
変えられたザアカイは、「そろばんとお金を捨ててイエス様に従っていきました」
などという流れではなかった。
やっぱり取税人のままだった。

その人が目的を持ってそこに置かれた。
それぞれが置かれた場所でイエス様の道を生きることの大切さを感じるなあ。
そして、変えられた人生を歩む人は
まだイエス様に出会っていない人をイエス様のもとにつれて行くように働く。

ザアカイは、このあときっと正しく税金を集めながらも、貧しい人には施しながら
イエス様の愛を表していったのではないだろうか。

なりたかった自分。ほしかったけど手に入らないもの。外見や欠点。
自分自身にあるストレスが、ひがみや投げやりな生き方になり
他の何かで取りつくろい、自分のやり方で自分を高く見せようとする。
自分しか見えてない。
そんな生き方はしんどいよねえ。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい」
                 (マタイ11:28)



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いのちの息も、花粉も、鼻から吹き込まれるのね

花粉症がひどいんです〜。
来たな・・・来たな・・・とは思ってたけど
夕べは夜中の1時くらいに鼻水で目が覚めて、そこから寝られませんでした。
薬を飲んでお昼寝しようかと思っています。

創世記2章7節
神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生き物となった。

という聖書のことばを思い出しました。
いのちの息は、鼻から吹き込まれたのです。
その大切な鼻から、花粉やら黄砂やらPM2.5やら、いのちを損なうような物質も入ってくる。
いいものも悪いものも、同じ入り口から入ってくると言うところに、
私たちの強さも弱さもあるなあっと感心してしまう朝です。

息と言えば、思いだすのがエゼキエル書です。

エゼキエル書37章

4主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
5神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、
おまえたちは生き返る。
6わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、
おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
7私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。
すると、骨と骨とが互いにつながった。
8私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。
しかし、その中に息はなかった。
9そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。
神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
10私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、
自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。

枯れた骨に神のことばを命じると、ばらばらに山積みだった骨たちが組み合わされ、肉がつき、皮膚がつき・・・
息が四方から吹いてくるように神のことばを命じると、いのちが宿って生き返った。
すごい場面です。
たぶん、いのちの息は、鼻の穴に吹き込まれたのだと思います。

この聖書箇所を歌ったのが、黒人霊歌「DRY BONES」です。
高校の時、吹奏楽で演奏したことがあったんだけど、乾いた骨って何よ?とも思わず演奏していたんだけど
クリスチャンになって、あのときのあの曲は、聖書からに違いないと思って調べたの。


主の息が私をも生き返らせてくださったのだと思います。
私の鼻から神様の息が入った。
そうです。神様から離れて生きて、死んだような私を生き返らせてくださった。
鼻にフォーカスしてたら、こういうみことばタイムになりました。

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高橋めりーのホームページ、リニューアルしました!

聞いたことのない人や、聞いたことのない歌を耳にしたら
まずインターネットに検索をかけてみる。
これが今では当たり前のことのようになっています。
ずいぶん前からですが、グーグルの検索サイトを使うときの動作をさして、
「ググる」などという動詞までできてるようで・・・。

ブログは日々のいろんなことを書く一つのツールですし
そこではどんなことを考えて、どんなことが身の回りで起こっているのかを伝えることができます。
しかし、やはり自分の「顔」とも言えるホームページをきちんと作っておかないと
自分がいったい何者で、どんなことをして来たのか、いまどんなことをしているのか、
なんのためにそれをするのか・・・・
ということが伝わらない・・・・・・・

わかっていたのですが、なかなか着手できず、ほぼ放置状態でした。
ブログも同様に放置状態で、
手軽に書きこんで、反応も非常に良いFacebookばかりに記事を書いていました。
ブログは最近ようやく再開したところなのです。

そしてこのたび、ixsusの有田さんに依頼して、ホームページをリニューアルしていただきました。
image.png
セカンドアルバムのイメージカラーに合わせた
ピンクを基調とするホームページです。

(左の写真は、スマホの「PC版画面」を撮影したものです。
ここをクリックすると、本物のホームページに飛びます。)

見る、聴く、つながるという要素をふんだんに取り入れたホームページなので、ぜひ一度お越しください。

予約受付を始めたセカンドアルバムはいいけれど
2009年につくったファーストアルバムの情報が少ないかな・・・と思っていたら
有田さんが、当時のブログ記事から文章を引っ張ってきてくれたのです。
それがなかなか面白いです。

「ゴスペル」というくくりでもさまざまなジャンルの音楽が生まれているが、めりーのゴスペルはどのジャンルだと思えばいいのだろうか。
フォークゴスペル・・・のようでちょっと違う。
ゴスペル演歌・・・とも違う。
火曜サスペンス・・・じゃなく歌謡ゴスペル・・・・ううん?違うよ。
(中略)
フォーク歌謡風熟年万歳系昭和懐古的ゴスペルというのはどうでしょう。

自分が書いた文章だけど何か笑うわ。
たしかにね・・・ジャンル分けしろと言われるとこまっちゃうんです。

いろいろ視聴もできるようになっていますので
ぜひ、ホームページ覗いてくださいね。


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告知:3月31日(日)イースターコンサート in みとキリスト教会(東大阪市)

 イースターチラシeaster.jpg
「みと」って、漢字で書くと「弥刀」です。
茨城県じゃないのであります。東大阪であります。
近畿大学のすぐ近くですね。

みとキリスト教会のHP(アクセスなどもここに詳しく書かれています)

45〜50分のコンサートと、佐藤牧師のショートメッセージがあると思います。

3月31日は、どこの教会でも、イースターの特別な礼拝が持たれることと思います。
でも、もし、クリスチャンだけど何かの事情で通う教会がまだ見つかっていないかた、
クリスマスは知っているけど、イースターってなんかあるのかな?って思われるかた、
単に、高橋めりーって誰やネン?と思われたかた、
どうぞお気軽にいらしてくださいね。
入場は無料です。
(自由献金と言うのは、プレッシャーに思われることなく、捧げる思いを持ってご用意されている方は捧げてくださいねと言うことです。
何かの入会費とか、出さないとバチが当たるとかは、いっさいありません。)

みとキリスト教会に集われる皆様は、
たぶん私の名前も歌も初めて聞く方が多いと思うので
プログラムにはゴスペルデュオ時代から最近までのスタンダードナンバーが並んでいます。
(人気ソング「愛されちゃって」がないけど(笑)・・・)

そして、教会様からのリクエスト「花は咲く」
この曲はFをCまで下げる荒業で歌わせていただきます。

今回ほんとに助けていただいて感謝なのは、
マルチな才能を持つアーチスト谷井浩一さんが、ピアノカラオケを作ってくださったことなのです。
ほんとに、つくづく、めりーはいろんなかたに助けられて賛美の活動をさせてもらってるなあって思います。

ありがとうございます。

そうそう、なんとこの日は
めりーのセカンドアルバム「いてくれてありがとう」の発売日なんだよぉ〜ん!
めっちゃスペシャルな日なんですよぉ〜ん!


そんなわけなので、皆さま、お誘い合わせのうえ、みとキリスト教会へお越しください!


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ヘブンリーのマスターのことを祈りながら、イエス様の愛を思い巡らせる・・・

人の痛みに寄り添うって、案外できてないのかもしれない。

東日本大震災の被災された方とお話ししたり、
病と闘うかたとお話したりするにつけ、
自分の中の「寄り添い」が果たしてほんとうに寄り添っているのかと思うことがあります。

頑張れと言われるとつらい・・・被災地の方がよく言われていましたよね。
励ましより慰めがほしい・・・そう言われた方もいました。

自分の小さな経験なんですが
つらい時に、そのつらさを軽くしてあげたいと思うのでしょう、
「そういうことって誰にでもあることだ」という言い方をされる。
誰にでもあるかもしれないけど、今、私はつらいのよ・・・・
そう思ったことがありました。
自分もそういうことを誰かに言ってるのかもしれません。

イエス様が、痛みに寄り添ってくださった究極の場面はこれかな~と思うのですが
弟のラザロが死んで、墓の前で姉妹のマリアやユダヤ人が泣いている場面。

ヨハネの福音書11章
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、
霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。

 「イエスは涙を流された。」聖書の中では最も短い一節です。
英語では、「Jesus wept 」というたったの二つの単語です。

この短い言葉に、人の痛みに寄り添うイエス様の深い深い愛を感じるのです。
最愛の弟の死を前にして悲しむ姉妹に
「人は誰でも死ぬものなのです」
「天国にいけば会えるからよいではありませんか」
とは言われなかった。

いっしょに涙を流してくれる。
こんな友がいたら、どれだけ慰められるでしょう。
実際にオイオイ泣かなくても、そのような気持ちで寄り添うことができる友でありたいと思います。

今日、八尾市でカフェ「ヘブンリー」を開いておられる
マスター&パスター(牧師)である高内寿晴先生が入院されました。
(ここをクリックすると、高内先生のブログに飛べます)
明日、4度目の癌の手術に挑まれます。

高内先生とは、私が歌声ペトラでコーラスとして出演していたときが初対面で、
そのあと、私たちの教会に新しい牧師がきて初めての春に、リーダーの修養会目で郊外に出かけ
そのときにたまたま三回目の癌の手術の後、教会のみなさんとピクニック?に来られていたのに遭遇。
それが二回目の出会い。
そして昨年ヘブンリーを開店されてから、私はヘブンリー贔屓客の一人となり、
今年1月には、ライブまで開かせていただいたというつながりです。

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先日、入院を前に、マスターご夫妻だけのために、賛美をお分かちしたいと思い立って
次男に頼んでギターを弾いてもらい、2曲賛美してきました。
1月のコンサートで歌いたかったけど歌わなかった曲でした。
やっぱり、この歌を、聞いていただきたいと思ったのです。

カフェの名前を「ヘブンリー」としたのは
岩渕まことさんの同名の歌のタイトルからです。これを歌いました。
「もう歩かない、走らない、自分の力では・・・」
「明日を悩まずに、今日を、今を生きてゆく・・・」

そして、「You raise me up」の日本語版


「心が疲れたとき 重荷を背負った時
私は立ち止り待つ 主が来てくださるのを
主が支えてくださると 私はつよくなれる
主が私に力をあたえてくださるから」  

慰めたり励ましたりすること、私はへたくそだけど
祈り心で寄り添える人になりたい・・・です。

神様、高内先生を、どうかどうかよろしくお願いします。


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ひな祭りに思う

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ひな祭りは、もともと雛遊びという人形遊びがあったのが
穢れをはらい、厄を人形に身代わりにさせて川や海に流す「流し雛」という風習に変わったのだそうな。
平安時代のことです。

お雛様以外にも、私が子どものころ毎月行ってたお寺には
「身代わり地蔵」「さすり地蔵」と言うのがあって
痛いところを触ってから、お地蔵様の同じ個所をさすると、身代わりになってくれるということでした。
祖母が、私の股関節の悪いところを地蔵に身代わりさせようと
しきりにさすってくれたのを思い出します。

日本人は、そもそも「身代わり」という感覚を受け入れやすいのではないでしょうか。

そう考えるなら、究極の「身代わり」であるイエス様のことは、自然に受け入れられるのではないでしょうか。

人間の罪の結果は、永遠の死。
罪の結果、バチがあたるという感覚も日本人にはなじみやすいものです。
当然、すべての人間にバチは当たるはずだったのです。
だって、罪のない人間なんていないから。
しかし、神様は人間を愛するがゆえに、その罰(バチ)をかわりに受けてくれる「身代わり」を送ってくれました。
それがイエス・キリストです。

ひな人形よりも、身代わり地蔵よりも、
完全で確かな、究極の「身代わり」がイエス様なのです。
何が完全かと言うと、身代わりが神ご自身であることでしょう。
そして、身代わりであるイエス様は復活されたことによって、
私たちがその身代わりであるイエス様を受け入れて、イエス様の道を歩くと決めたときに
イエス様と同様の「よみがえり」があるのだという希望を与えられました。

ひな祭りは、女の子の節句。
子の成長を感謝し、喜ぶ日。
今どき、ひな人形を「身代わり」ととらえている人は少ないのかもしれないけど
「身代わり」というキーワードを見かけたら、
身代わりであるイエスキリストを思い出してはいかがでしょうか。

ひな祭り。
私にとっては毎日が「イエス様まつり」だぜぃ!!!!!!


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